エリップへのステップ

エリップへのステップ

平松愛理

エリップへのステップ

平松愛理

エリップへのステップ

★愛理さんと私

愛理さんの曲とめぐり合ったきっかけ、愛理さんの曲に惹かれていく過程、出会い、そしてしばしの別れと再会…。その辺りの流れを自身の自伝と絡めて簡単にこの場をお借りして書かせて頂ければ…と思う限りである。題して『エリップへのステップ』。このタイトルは愛理さんファンの代表格を担うBONさんに付けて頂きました。大変素敵なタイトルで気に入っております。この場をお借りして感謝申し上げる次第である。

平松愛理と言う歌手が活躍していると言う事は、愛理さんのファンとなる前から知っていた。多くの方がそうであるかとは思うところであるが、やはりはフタ自身も『部屋とYシャツと私』を歌っている歌手と言う認識を抱いていた。ラジオから流れ出てくる曲を何度か耳にした事があったが、ワルツを基調としたメロディー、愛理さん独特の歌詞感は、愛理さんのファンとなる以前の当時のフタにはけして理解する事はなかった。そんな当時のフタはちょうど高校生の頃合であった。金銭的に余裕があろう筈も無く、1枚3000円もする高価なアルバムCDを購入すると言う事はほとんどなかった。 それは高校を卒業して余儀なく(必然的に?)浪人生活を強いられても、はたまた浪人生活を経て大学生となっても同じであった。一方で浪人生活とは違って、ニューミュージックと呼ばれていたであろうか?、邦楽のポップスを中心に音楽を楽しむ余裕が芽生えていた。そんなフタがもっぱら頼りにしていたのはレンタルショップであった。レンタルショップでCDをレンタルしてこれをカセットテープに落とし込むのである。時には気に入ったCDがあれば購入する事もあった。ちなみに初めて購入したCDはドリカムの5thアルバム『The swinging star』( 発売)であった。このアルバムは当時のリリース枚数最高記録を達成したアルバムである。愛理さんとドリカムの面々がオーディション会場で数奇な運命の出会いを果たしていた事は、当然のことながら後に愛理さんが書かれた書籍に目を通して知りえた事であり、当時のフタがそのような事実を知り得る事が出来る筈もなかった。 そんな中、 「たまには平松愛理でも聞いてみるか…」 と軽い気持ちで手に取ったのが、愛理さん6枚目のオリジナルアルバム『一夜一夜に夢見頃』(1993年12月発売)であった。このアルバムを聞いた時の衝撃たるや…、 「ひょっとして平松愛理って凄いかも…?」 と、言葉にはいい言えぬ興奮を覚えた事を思い出す。こうしてフタは次第に平松ワールドへと足を踏み入れていった。愛理さんファンとしては遅咲きの方かもしれない。愛理さんのデビューは1989年の事であり、既にデビューから4年の月日が過ぎていた。出遅れた月日を取り戻すべく中古CD店(汗)へと足を伸ばし、手に取ったのが『一夜一代に夢見頃』に先立って発売されていた愛理さんのベストアルバム『Single is Best』(1993年 4月発売)であった。確か帯に『とりあえず平松愛理を知りたければこの1枚…云々』と言ったような謳い文句が記載されていたと記憶している。取り急ぎ『一夜一代に夢見頃』に加えて『Single is Best』も買い求めて聞いてみれば、なるほどベスト版に相違なく「Single is Best!?」やら「マイセレナーデ」やら、 「おぉ~、これも知っている、知っている…♪」 と、愛理さんの曲を今まで知らずにいて、その実はよ~く知っていたと言う事実を実感した。こうして今までの遅れを取り戻すべく愛理さんのCDを片っ端から購入しては聞き込んでいった事だった。 そんな訳で過去のCDは全て中古で買い揃えてしまった(一つだけ2ndアルバム『とっておきの20秒』だけはどうしても中古市場で見当たらず新品で購入した記憶があります)のであるが、その後はファンの基本として「女の生命は短くて」(1994年7月発売)や「あなたのいない休日」(同10月発売)と言ったシングルのアルバムも新品状態で購入するように努めた。何と言っても歌手の方にとって印税収入は歌手でおられる事の証ですし、一方でファンたるや売り上げに貢献するのは当然の使命であることですからね~。 こうして少しずつ愛理さんの事が判り始めてきたそんな中、愛理さん7枚目のアルバム『7 DAYS GIRL』(1994年11月発売)がリリースされて、これを引っさげてのライブツアーが行われると耳にした。当時今のようにインターネットは一般的ではなく(少なくともフタ自身インターネットと言うものの存在すら知らなかった)、恐らくは『ぴあ』などの雑誌類か何かで目にした情報であったかと記憶している。 「見たい!一度でいいから生の愛理さんを見てみたい!」 調べてみれば近所の『かつしかシンフォニーヒルズ』でライブが行われる(1994年12月22日「いすの上にも7年」ツアー)という事が判明し、友人連3人を連れ立って合計4人でこれを見に行った。チケットの入手が遅かったせいであろうか?残念ながら2階席の最後方しか空きが無かった。それでも良かった。ただただ愛理さんのステージが見られれば良かった。 今でこそ毎週のようにあちらこちらのライブへとふらふら足を運んでいるフタであったが、当時のフタはライブと言うものには数える程しか足を運んだ事が無かった。ライブという言い方がその当時にあったかどうか…?ライブと言うよりもコンサートと言った方がしっくりくるかも知れない。ツアータイトルは『いすの上にも7年』、7と言えば虹色、正にいろいろな色=バリエーションの愛理さんの活躍ぶりが確認できたツアーであった。季節はクリスマス直前と言う事で、『恋の証人』のアカペラver.からライブが始まった事を覚えている。たくさんの球体を身にまとった愛理さんのステージ衣装、はるか10年前に見た光景ではあるが、つい先日、いや、つい昨日見てきたかのように脳裏に鮮明に残っているものである。この衣装、もう一度見てみたい気がするが、残念ながら映像化されていないので、その衝撃を受けたのは一度のみに留まる。このときに購入したパンフレットに愛理さんが原画としてこの球がたくさん付いた衣装を描かれたものが掲載されていて、これが今となっては唯一の手がかりと言ったところであろうか? 年が明けて1995年となり、このツアーの最中に愛理さんの故郷・神戸が震災に見舞われた。ご自宅が完全に崩壊するなど愛理さん自身も大きな被害に見舞われたと耳にした。このニュースが報道された時に真っ先に思い出したのは、 「愛理さん、どうしたかな?」 であった。その後愛理さんはご自身の道を見つけられてチャリティーライブ『KOBE MEETING』を開催されるに至るのであるが、今回のエッセイの趣旨である『エリップへのステップ』とはかけ離れてしまうので、ここではその詳細は割愛させて頂く。

愛理さんには多々ご事情があり、ここからしばし生の愛理さんと触れ合う機会に恵まれなくなってしまう。その間にも創作活動は順調に進められておられたご様子で、シングルでは、 >「美し都」(1995年4月発売)
>「おしえて神様」(1995年11月発売)
>「Midnight Sun」(1996年5月発売)
>「ビビッとドキッとGood Day」(1996年9月発売)
アルバムでは、
>『Eri's "B" Good』(1996年1月発売)
>『Reborn』(1996年7月発売)
とリリースがされ続けた事であった。それぞれの曲にはそれぞれの思い出がある。シングル「美し都」は阪神淡路大震災で被害に見舞われた方々への応援メッセージソングとして作成され、愛理さんの曲としては珍しく作詞は作家・作詞家の阿久悠先生がご担当されておられた。このシングルのリリースの後であったであろうか、幾分と落ち着きを取り戻した頃合に確かテレビ東京系列だったかと思うが、『スペシャル音楽館』と言う番組がスタートして、この第一回目のゲストとして愛理さんが登場されていた事を覚えている。愛理さんが懇意にされておられる島倉千代子さんを迎えてのトーク、加えてあちらこちらでのロケも網羅されていて、丸ごと『愛理さん!』と言った番組であった事は印象深いところである。そのロケの一つに阿久悠先生とラジオの収録に臨んで神戸について語るシーンもあったかと思う。その他「美し都」のバックコーラスを担当された岡村孝子さんのレコーディングスタジオを訪れたり、震災に見舞われたご実家、南京町、チキンジョージなどを見て回られたりする構成になっていたと記憶している。勿論曲披露も行われたのであるが、「美し都」は言うに及ばず珍しく「私の彼は午前様」が披露されていたものだった。 「おしえて神様」は「君らしく」から続いて大塚製薬のCMソングに抜擢されたナンバーだったはずである。故に多くの方の耳にも触れる機会に恵まれたのでは?と、思うところである。同ナンバーのPVでは愛理さんがスーツケースを振り回して空高く飛ばすシーンが映し出されている。確かラジオか何かで耳にしたことと記憶しているが、あのシーンは新宿御苑で撮影したと仰られていたかと思う。 「Midnight Sun」はご出産(1996年2月ご出産)の生みの苦しみをなぞらえて、何故か不倫の歌詞が生まれた(笑)と言う逸話が残る作品である。この曲がリリースされた折HEY×3に出演された愛理さん、お嬢さんを出産した折に『HAPPY BIRTHDAY』の歌を聞かせてあげたと言う逸話を披露されておられた 事を覚えている。浜ちゃんだったであろうか、 「あんた無茶しまんな…」 と言ったツッコミを入れられていた。 『Reborn』のジャケ写は花嫁をイメージさせるような白いふわりとした衣装をまとった愛理さんが映し出されている。このジャケ写を撮影した折には実はお腹にお子さんが宿られておられた時期で、このお腹具合を隠すためにこうした衣装を選ばれた…、確かこれもラジオであったであろうか?愛理さんの口からお伺いした事があったと、記憶しているところである。

そんなこんなで愛理さんはしばしテレビやラジオでのご活躍をされ、なかなか直接お目にかかる機会に恵まれなかったのであるが、1stコンタクトを果たして2年近く経った1996年9月になり、ようやく2度目のコンタクトを果たす機会を得た。愛理さんがご出産されるなど多々諸事情が重なりしばしご無沙汰となったが、久しぶりのツアーが『えりの恩返し』が開催される事となり、ここで再会を果たしたと言う形になったと言う次第である。 学校が近くに位置していたと言う事も手伝い、足を運んだのは初日越谷(サンシティー越谷)での公演であった。これもやはり「ぴあ」などでチケット情報を入手して、チケット発売当日に北千住のぴあへと足を運んで購入した事を覚えている。フタに加えて友人のFさん、Kさん、そう言えばSさんも行きたいって言っていたっけ…。それならば4枚抑えておこう。「ぴあ」のカウンターで起票を行い、チケットを発券して貰う。そしてお約束どおり、 「それでは『ひらまつあいり』4枚で間違いないですね」 と、チケットの確認を行う店員のおばちゃん(汗)。いやいや大間違いなんですが…(苦笑)。やはりは愛理と見て、「えり」とは読めないものでしょうか?う~ん? 『頑張って愛理さんの宣伝をしなくては…!』 と、心に誓った瞬間であった。ちなみに愛理さんの芸名の愛理の愛の字は、 「何か「え」と読む漢字でいい字は無いかしら?」 と思案した結果、 「そうだ!愛媛の「え」って、「愛」って書くっけ…」 と言った具合に、愛媛県の愛の字からヒントを得て付けられたものだそうです。確かこのエピソードもラジオで紹介されていたと記憶しています。 チケット発売初日にも関わらず、入手したチケットは確か20列目前後と言ったかなり後方の座席であった。 「結構売れ行きがいいんだなぁ~」 と、内心思ったものであったが、ところが当日ライブへと足を運んでみれば、フタたちご一行様の座席の前はがらんと空いていた。前方10列目程度までであったであろうか?が、程なく埋まっていて、しばし空白の列があり、またそこからお客さんが埋まっていくと言ったところであった。今だったらドリームと言うのであろうか?さっさかと座席位置を前方へと移動させたと思うのであるが、当時まじめだった(爆)フタは、生真面目に友人連中とあてがわれた座席に固まってこのライブへと参戦した事だった。ツアー初日でありながら、平日の東京近郊での公演ともなれば集客に幾分の難があっても致し方なかった部分かと思う。ちなみに当日券の発売も行われていたのであるが、件のSさんの都合が付かず結果チケットが1枚余ってしまった事もあり、 『誰かこのチケットを買ってくれないものか?』 と、当日券売り場を訪れるお客さんをしばし見つめていた事を思い出す。別段高く売りつけようという気持ちは無く、最悪は貰ってもらえればそれでよかったのであるが、結局は係員氏が多々おられたので、チケットを捌くのはその場で断念してしまった。 こうして再会を果たした愛理さんである。ご出産された事は存じていたものの、病気のことは存じ上げないフタは、その久しぶりのステージングに素直に大いに興奮を覚えた。ケーキをモチーフとした大きなセットが組まれていたのは確かこのライブでの事だったと思う。ツアーパンフにもステージをイメージしたイラストが描かれていた。「愛理さんの恩返し」を受けたフタはしばし至福の時を過ごし、その余韻にひれ伏していた事だった。

愛理さんとの2度目のコンタクトを果たした後、再び愛理さんとは疎遠になってしまう。その間にあってもCDを聞いたり、ラジオを聴いたり、愛理さんのファンである証は持ち続けていた。1997年12月に『fine day』が発売され、 翌1998年2月には『バラードベストコレクション 可憐~Karen~』 が発売された。その後所属事務所を移動され、1999年4月にはシングル「Endless Moment」が発売となった。はなまるマーケットにゲスト出演され、主題歌として使われていたドラマにも少年野球の応援に来ていた主婦の役として実名でゲスト出演を果たされておられた。 翌年9月にはアルバム『Usa-Bara』がリリース、更に1年を経て2001年9月にはデビュー以来の闘病生活と苦心されたご出産、子宮の摘出手術に至るまで赤裸々に綴られた「ゲキツー!!―子宮内膜症との闘いの日々」が発刊された。この書物、一刻も早く目を通したく思い、わざわざ神保町の書店にまで購入しに言った事を覚えている。 そうこうしている内に、3度目のコンタクトを果たす段に至っては、2度目のコンタクトから6年の月日が経ってしまった。おかげ様を以ってフタも大学を卒業し社会人の仲間入りを果たしていた。3度目のコンタクトもライブであった。このライブが行われる告知は確かラジオで耳にした事だったかと思う。ツアータイトルは文字通りの「オヒサ!」であり、会場は渋谷公会堂であった。やはり販売初日に勇んで近所の「ぴあ」にチケットを買い求めに出掛けたものだったが、やはりとも言うべきか、今回も一般席は余り良席は宛がわれず、2階の10数列目の座席が宛がわれた事だった。さんざん愛理さんのファンと公言しながらも、一度もFCに加入せずにいたツケはこのような時に巡ってくると言うものである。フタがFCに加入したのは更に後になっての事であった。 この頃はインターネットを始めていた。いつも懇意にさせて頂いているBONさんとお知り合いになったのは、このライブの後、後日になってオフ会を開催された折の時であった。お顔を存じ上げる前の交流はこのライブ開催前辺りであったかと思う。思えばあれからもう3年の月日が経っている。 楽しみにしていると月日が経つのはあっと言う間に過ぎていくものである。いよいよライブ当日2002年4月11日となり、会社を定時にあがったフタは地下鉄で一路渋谷へと向かった。渋谷公会堂は渋谷駅から 坂を上り詰めたところに位置している。駅からの道のりも15分ほど掛かりアクセスには若干の難がありながらも、何か妙な到達感があったりするのが不思議なものである。早速にもぎりを受けて場内へと移動する。ツアーグッズの類が発売されていて、白いCDのキャリングケースを購入した。1500円だったかと思う。このケースは今でも大切に利用させて頂いている。パンフの類は無いのかな?…?と見渡してみたものの、残念ながらパンフの作成は行われなかったようだ。入り口でチラシを受け取ったに留まる。今にして思えばこの折入り口で受け取ったチラシにはセットリストが記載されていたのであるが、セットリストを見てしまうと安心感が増える反面楽しみは減るというもので、結局このチラシを目に通したのはライブ終了後であり、ネタバレを踏まずに済んだ事であった。 最初から分かっていたことではあったが、宛がわれた座席はやはりとも言うべきか、かなりの後方であった。そして今回も前方の座席はガランとしていた。何より2階へと足を進める方がいなかったので、最初からそのような気もしていた。最初は男性のお客さんばかりが数人固まった一角の中でじ~っと大人しくライブが始まるのを待っていたのであるが、いざライブが始まりいよいよ2階席には余裕がある事が確認できれば、そこはもう6年前の大人しいフタではない(爆)。渋谷公会堂の2階席は凹型になっていてその突端はかなりステージに近い。1階席レベルで勘定すれば1桁列目見当となりえよう。そこで1曲目が披露されているか、或いはされ終えるか程度のタイミングであてがわれた座席を立ち去り、さっさかと2階席ステージ下手(しもて)の最前列にまで移動した。いわゆるドリームと言うやつである。さすがにここまでくれば近い。3度目の愛理さんのライブ参戦にあって、最短距離更新であった。ここからは1階席も良く見渡せる。1階席は程なく座席が埋まっているようだ。今回も平日でのライブ開催で集客はいかに?と思わせられる部分もあったが、なによりも6年ぶりのツアーと言う事で、それこそ日本中から愛理さんのファンが詰め掛けた格好であったことだろう。  久しぶりに耳にする平松ワールド、フタは心よりその空間を堪能した。一緒に盛り上がり、手を振り、手拍子をした。アンコール前ラストナンバーでは元気良く「最後の音符」を披露されるのを耳にして、愛理さんの完全復活を心から祝福した…。それで終わる、そしてそこから新たな何かが始まる。そんなライブに終始する筈であったのであるが…。 アンコールに応えて再登場の愛理さん。その愛理さんから口をついたのは「まさか!」の一言であった。自身乳癌に侵されていたこと、昨年末に手術を受けた事、そして休業宣言…。場内が静寂に包まれて、静寂がまた静寂を呼び込んだ。水を打ったような静けさと言う表現がしばし比喩として用いられるが、実際静けさの中には水を打つ音さえもしない。静けさの中フタの脳裏には幾重もの思いが交錯し、一方で全身に鳥肌が走った。あの時の柄も言われぬ思い、面持ち、気持ち、今でもけして忘れられない。愛理さん自身は告白を終えたと言う事で、一種安心されたような感じがあった。静けさが支配した場内の空気を何とか暖めようと努められていた。そんな愛理さんの気持ちがとても辛かった。一番辛いのは愛理さん自身であろう。そんな愛理さんに気を使わせてしまった。その気持ちが辛かったのである。 最後は歌を伝える自分自身の使命を綴った「I SING」を披露された。愛理さんの声が涙声となり、またフタの心を打つ。歌詞が途切れ、やはりフタの心を打った。この頃にはフタは現在のホームページを持っていた。愛理さんのライブに行くことも皆さんにご報告しながらも、愛理さんのライブレポートを書こうという気持ちは無かった。そして愛理さんのライブに参加してフタは後悔した。愛理さんの気持ちを何とか自身のホームページを通じて、少しでも、ほんの少しでも構わないから、多くの人に伝える事が出来ないものか…。 『いずれ愛理さんが復活してライブを行う事があれば、是非ライブレポートをしたためさせて頂きたいものだ』 そう心に決意して、その願いが叶ったのはそこから更に2年を経た『』での事であった…。

本テキストを作成させて頂くに当たりましては、ひらまっちゃんのページにご掲載されております年表(プロフィール、ディスコグラフィー)を参考にさせて頂きました。心より感謝申し上げます。

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