阪神淡路大震災

わかりやすく説明いたします。

平松愛理

阪神淡路大震災

平松愛理

1995年1月17日 午前5:46分

平松愛理の家は全壊、友人も亡くす。

地震当日、平松は調子をたまたまくずし、東京にいて被災者にはならなかったが、 家は全壊し、友人も亡くした。 はんば、夢の途中で天国にいかなくてはならなかった友人の為に、 また、震災を忘れては困ると思う人がいる限り、平松は歌うことを誓う。
作詞家 阿久悠氏 が復興支援の歌をやりませんかと。

1995年4月、阿久悠氏が神戸復興支援ソングをやりませんかと話す。 売上の一部が震災復興義援金になるときき話をうける。 話を聞き、親交のある、岡村孝子、沢田知可子、大江千里、島倉千代子がコーラスで参加。

美し都~WE LOVE KOBE がんばろや はこのサイトで聴くことができます。 *VOCALOIDルーム 9番、MIDIルーム 9番でどうぞ

震災から半年・・・がんばっている神戸を伝えて。

平松はスペシャル音楽館という番組で、震災から半年の番組をやる。 自分が実際に、神戸を歩いてインタビューしてまわった。 頑張ってる人に、頑張って!と言えませんでした。頑張っているから。 平松さんは歌で伝えてと街の人に言われ、そうなると誓うのでした。 96年平松は神戸の四季の素晴らしさと震災の無念さを歌った曲を次のアルバムで発売。

南町から はこのサイトで聴くことができます。 *VOCALOIDルーム 8番、MIDIルーム 16番でどうぞ

泣かせる為に歌っているのではないのに・・。

震災から数年経った1月17日、平松は神戸で歌う。 自分の歌で泣いている方を見て泣かせる為に歌っているのではないのにと思う。 忘れたいのにと思っている人がいるそれに悩む平松。 でも忘れては困ると思う人のためにも続けるべきと感じる。 そして震災支援イベントに参加してきたが、自分で納得のいく震災支援を 行いたいと感じ、99年3月7日、東京で震災支援の決起ライブを行う。 2000年より単独で1月17日支援コンサートを行う。

震災に区切りなんてない!

震災から10年経った2005年、地元では震災から10年で特集が組まれる。 平松は活動がしやすいと思いつつも、10年だけ話題にするのは違和感があった。 震災で亡くなった方への想いは区切りなんかでくくられたくない。 そう思う平松はこれからも1.17支援ライブをすることを誓う。 平松の書いた震災の詞が2004年に朝日新聞にまるまる掲載された’残された者たち’ そして、毎年震災の為に作る、震災支援ソングを発表する。 ’忘れないきっと忘れない’ ’2007神戸’など。

震災の風化 そして最近抱える問題

被災地は完全に復興したかに見える。だけど違った。 被災者の孤独な高齢化、無支援、風化・・。 厳しい現実にその現実をそむけたくなるが、 しかし、平松は活動することで、今直面している問題も気づいてほしいとも 訴えている。

3.11を迎えて

2011.3.11東日本大震災が起こる。平松は直後、被災地に向けて 花と太陽を歌いにいったが、感きわまって泣けてきたという。 その後、復興に向けて夏より神戸の花、コスモスを被災地の学校 に植えにいって活動をした。コスモスの花は満開になった。 平松は歌を歌うことと花を植えることしかできないといい、 これからのKOBE MEETINGは東北被災地にも向けて支援を したいと決意を新たにする。 震災20年を迎えて 2015年1月17日、平松は20回目のKOBE MEETINGをほぼ ワンマンという形で行う。震災に区切りなどないといい続けて 続けてきた平松であったが、震災があった95年に生まれた赤ちゃんが 成人になることについて言及し、はじめて区切りという言葉を使った いろんな批判があったなかやり続けてこれたことに感謝を持ち、 使命感というだけでは続けてはこれなかったこの現実を踏まえて これからもこの活動を続けていくと宣言した。

そして2020年、神戸ミーティング

20年を区切りとした平松であったが この意味はなんだったかというと、 1月17日当日に支援ライブをやることに区切りをうったということ。 2016年は1月17日は日曜日だったので、17日に開催したが、2017年以降は17日より前の土曜日とした。 理由は土曜日のほうが、遠方の方も 来てもらいやすいし、現地の人も、 平日参加は困難のためとされる。

神戸ミーティングが終わり

2020年1月17日をもって25年続けてきたKOBE MEETINGが最終公演となった。 平松はこれからは神戸に限らず、未災地へも活動を広げるよう誓う。

コロナ渦

日本も大変な時代になりました。震災大国のみならず、ウイルスとの共存世界となりました。2020年に起こったコロナ それは1年では収まることもなく、現在も苦しんでいます。日本はがんばらなくてはなりません。そんな中、2020年に 平松愛理は、故・阿久悠さんの親族さんと交渉し、この美し都を、今度はWE LOVE NIPPONがんばろやに変えてYOUTUBE に発表することに賛同を得て、ファンの皆さんとつくる、美し都~WE LOVE NIPPONバージョンを自身のYOUTUBEチャンネル に発表した。


神戸MEETINGについて

1999年3月に六本木で神戸MEETING決起集会ライブがあったあと平松は 神戸にて、単独の神戸MEETINGを始める。2000年から2005年は三宮に あるチキンジョージでやっていました。当時はかなりのお客さんがおり ぎゅうぎゅうずめだった記憶があります。1月の寒い時期に寒い寒いと いいながら、ライブ前の通路に並んでいました。2006年は長田区に移り SITE-KOBEにてライブ。2007年から2011年は矢田神戸市長がこの活動に 支援くださり、会場を提供したことから神戸ファッション美術館の オルビスホールで行われた。2012年は新神戸オリエンタル劇場に場所を 移しての開催。途中、117の開催自体が危ぶまれた時期もあったが、地元 アーチスト4組と組んで対バンという形で行われた。ネスレのタイアップ を受けて、2016年は神戸船の旅・コンチェルトDデッキダイヤモンドで 2回公演という形をとった。この時、まだ必ずいくコアファンは300人 近くであった為、ほぼ即完売という形となった。2017年からは、117当日という こわだりを捨てて、来てもらいやすい117前の土曜日に行う形となった。 場所はジーベックホール。2019年は神戸煉瓦倉庫 K-waveという小さめのホール で行うことになった為に、行きたくてもいけないファンもおり、特別に 期間限定である部分のみ映像中継を行うなどした。そして2020年最終公演 は神戸新聞松方ホールにて。事実上、大きなネスレからのバックアップ最後の年 となった。


忘れない きっと忘れない

忘れない きっと忘れない
あの夜のこぼれる星空
忘れない きっと忘れない
いつもあなたを忘れない

忘れない きっと忘れない
当たり前すぎた幸せ
忘れない きっと忘れない
人の温もり そして絆

一緒にお粥を食べて
薪ストーブにあたり
語り合った熱い想い出
夢の中で 続いているよ

忘れない きっと忘れない
君のしぐさを笑顔を
忘れない きっと忘れない
あの日流した涙のひとつひとつを

せいいっぱい生きる事を
あなたが教えてくれた
また会えるって信じてるから
ゆりかごの前で いつの日にも

忘れない きっと忘れない
あなたのいたこの街
忘れない きっと忘れない
あの日泣いてた空を
やさしい風になったあなたのことを

-------------------------------------- 震災を感じてみませんか。

「にいちゃんのランドセル」

平松さんは2010年、阪神淡路大震災の被災者の本 ’にいちゃんのランドセル’をラジオで朗読しました。 漢之くんの最後の「あのね帳」の原稿や、 漢之くん・深理ちゃんの写真が置かれた 実際のテーブルとか見ると感じるものがあります。 米津さんご夫婦が心をこめて育てあげた生命が、 瞬時に奪われたことへの憤り、悔しさ、無念さというのが、 ひしひしと伝わってもきました。 けれども、二人の命を無駄にしたくないという思いが実を結び、 二つの新しい命を送り出せたこと。 ご夫婦の“負けない強さ”に、 番組で、そして本で改めて教えられた思いです。 平松さんが放送で読みきれなかったエピソードにも、 心打たれるものが少なくありません。 本屋さんでもアマゾンでもいいので、 できれば図書館とかから借りるのではなく、 買って、いつも部屋に置いておきたい一冊です。 城島充 著「にいちゃんのランドセル」。 発行は講談社。単行本です。

 

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