HPの保管庫24年

2000~2024

平松愛理

HPの保管庫24年

平松愛理

HPの保管庫24年目


元々は、ホームページをやりたかったわけではない 脚本家になりたかった。 だから20代の頃は脚本ネタ ばかり考えている少年だった。 脚本を書き始めたのが1996年。 当時からなんとなく、 TO BE YOUR STYLEを聴いていた ただのファンだったが、 1998年にとんでもないことに 思いつく、 そう、つんく♂商法だ。この方は、ラジオの はがき職人から発展して、芸能界に出た。 自分もチャンス広げたいと思い、 1996年に書いた 平松の最上級I LIKE YOUを テーマにしたラブストーリー A5 150枚を番組に 15週にわけて、FAXしつづけた。 そして、それが終わった頃、 音楽業界なら歌詞だろう ということで280の 歌詞を平松さんの番組に送ることに なる。 いつのまにか、ファンサイトも手をだしはじめた それが、2000,8,3だったわけだ。 (プレオープンは7.24) 歴23年半超えたが、どのように今に至るかふりかえる 時期によって主にやっていることが変わってきている

(2024.02.04)

1、初期のホームページ(2000-2002)

普通、ホームページを作るとなると、本来であれば、 元々、コンピューターが好きとか得意とか、 そういった人が多いものだが、自分は違った。 もともと物書きを目指していたのて、 95年に 買ったワープロで文字をうつ程度しか知らなかった ホームページも本来やりたかった類いではなく、 広めるためにはこれが必要という情熱だけで 始めた。本屋にいって、 ホームページが作れる本、 CDつきのを買って1日で公開した。 もちろん、本はA4の図解式の100ページぐらいのもので、 情報も最低限しかなく、 書いてあることなぞったにすぎない。 だから、ホームページも非常に簡単な作りでしかなく、 ユーザーはなんのページかすら認知できなかったかも しれない。最初の一年はペイントで書いたへたい、 イラストと近況とイベントをひたすら 書くことしかしていなかった。勿論、 itに興味あったわけでもないので、なにも技術的に 勉強していなかった。 それでは非常に困ることがやりはじめて、 3ヶ月でおきてしまったが。 それは管理人室に書いてあるので 興味のある方は読んでみて下さい。 そして、開設してわずか、一年半で平松さんが、 病気になり、 ラジオ番組が終了してしまう。 2002.5月からやることがなくなりぽあーんとしていた。

2,オフ会(2002-2020.1.17)

心がぽあーんとしているときに、二種類のオフ会が 立ち上がる。 ひとつは他のテーマでホームページを 作っている、ホームページ仲間。 もうひとつは、 平松愛理がテーマで集まるホームページ来訪者仲間 のオフ会だ。 私にはどちらも大切な出会いであった。 ホームページ管理人仲間のオフ会は数えるほど しかいっていないが、ホームページのマナーや、 技術をそこで学んだ気がする。 一度、世に出した、 ページを変更したり、階層わけしたり、なるほど と思った。 平松愛理関係のオフ会は平松愛理だけ のカラオケを延々歌いまくってたり、 平松愛理に 関連する場所をまわったり、平松愛理に関して、 なかながと討論したり、なかなか貴重な年として 記憶している。 平松オフ会(CMP)はコロナ化になり、afterの飲み会ができなくなった 為に1年以上、会としてはしていない。CMPはふわふわ空に跳んでいる感じがする 2021年、存在するかといえば、微妙である

3,魅力的なmidiサイトに出会って(2003-2005)

憧れは情熱を呼ぶ。この憧れが今の情熱を保っているといっていい。 とりこになったmidiサイトがあった。量も質もランクが違った。 ここで人生において間違った選択をしてしまう。 私はこの頃30歳手前、 本来であれば、自分の将来の仕事の スキルアップのために、 勉強しなければならないところ、 趣味のホームページを充実させるため に その為だけに勉強してしまう。具体的になにをやったかというと、 音符が読めなかったのでmidiを作るために マンツーマン音楽教室にかよった。 授業料だけで50万払った。先生にも不思議がられた。 動機が変だと。 いったい何の為に投資するのと。 その頃の自分は楽しいから、 気づいていない。 勿論、二年通って、音符は読めるようになったし、 音とりもできる、作曲もできるようにはなったが、 あくまで、趣味であった。 それで食べていける 訳ではない。たが、のめり込み度はすごかった。 はじめは、平松MIDI100曲は無謀だと思っていたが。 いつしか、通過点だと思うようになった。

4,ボカロに出会って(2006-)

2006年だったか、あるサイトを訪れる。そこで、 なにやら機械が唄っているというではないか。 そこで、千の風になって。のボカロを聞いた。 聞いた瞬間、これやってみたいとなった。 そして、メイコを買って使ってやってみた。 実はメイコ、初代メイコは気に入っている。 メイコを買ってほどなく、有名なミクがでる。 でもアニメすぎて、イメージが平松と合わないのだ。 いや、アーティストイメージ壊すので やっちゃいけないと思った。 メイコだって好きでないひとがいる だけど、アニメぽくないので採用した。 2008年までに、20曲ボカロにした。

5,広告に手をだして(2006ー2018)

手をだした2006年頃が一番ギラギラしてたな。 とかく有名なサイトになるんだと野心だらけの毎日。 まあ、そう思っているうちは所詮小者なんだけどね。 近況、イベント、フラッシュ、 MIDI、ボカロ。これだけやればあとは、有名になる だけと考えてていた。 だけど、2006年は平松さんは 活動が薄かったこともあり、アクセスが落ちたと 同時に、リフティング広告をかけた。 広告は形を変えて 動画広告、フェイスブック広告と変わった。今は広告はやってない。

6,第一次成熟期(2008)

この時期が、今思えば、一番バランスのよい状態の年であった。 会のメンバーの結束が強かったし、 マンスリー スロールーム(平松ライブ)の最後の月はメンバー共同で、 サプライズ企画も遂行し120名のお客様を動かした。 サイト的にも、 そこそこ有名になったし、ファンサイトとして 一応、形をなしたのではなかろうか。 たた、いい時期は続かなかった。仕事運か、 2009年にがたっと落ちた。 包んだ言い方すると 休職、悪くいえば解雇だった。

7,異常更新期(2009-2010)

結婚一年強、娘も生まれて、これからというときに まさかの解雇。 一度ファンサイトも閉鎖。 泣けてしまって、妻から続けていいよといわれて、 1日で 再開。休職中の宿題として、一流のサイトにしなさい、 と言われていた為に、 趣味の域では、不可能な 量の更新をすることに至った。毎日10時間以上、 作業を行った。これで稼げていたなら、天国のような生活だが、 この作業では一円にもなっていない。 月に300時間の作業。2ヶ月もあれば、 平松ボカロ20曲から143曲にするのは容易いことであった。 妻に平松サイトだけじゃ一流にならないんじゃない?といわれ? 平松さんと親交がありそうな、アーティストを選別し、 9アーティストファンサイトを 作成し、累計500曲のMIDIやボカロを作る。 さすがにmidiやボカロに飽きてきたころ、 脚本を作りたくなり、 平松がもし 古畑任三郎にでたらどうなるだろう? と思って脚本を創る。 もちろん、 二次創作だけではなく完全オリジナル も作っていった。 元々、脚本家になりたかったので、 ここで、想いが爆発してしまった。 しかしながら、根本的にファンサイトで 書いているので、自称物書きとしてか 認識されなかったのは事実である。 一応、昔書いたものの、サスペンスものの 資料とか 引っ張り出して、書いていた時期でもある。 脚本は2010年は累計6本やった。 また、それだけではなく、コンテンツを常に考え、 妻と1歳の娘で、 ベビーカーに 乗せて散歩、散歩中にいろいろ考えて、 階層別のコンテンツ、 ファンの度合にあった コンテンツを日々考え更新していった。 しかしながら、2010年も終わる頃、 さすがに貯蓄がなくなってきて、 これでは家庭が崩壊してしまうと気持ちが一転し、 また、妻にも、そろそろ、 働こうかと いうことを言われ、とりあえず、就職活動をして、 安くても仕事をはじめる。 (何故、すぐ仕事へ復帰しなかったのかは 興味ある方は、 旅のテーマという シナリオを読んでください。 設定を少し変えて書いてあります) まあ、人生としては休憩時期である。

8、仕事と趣味の間で(2011-2012)

10年やってきたファンサイトで 食べていけたらいいなと思いつつも、 仕事はベットメイクという、あまりやりたくない仕事。 2012年はIT派遣になったが、 あまり興味のない仕事、生活の為に続ける。 仕事でたまった、フラストレーションを 趣味で解消している時期であった。 MIDIやボカロは平松のオリジナルソングは コンプリートしていたので、 提供曲や、企画曲まで手を出しはしめた。 脚本もどんどんやりはじめた。 平松オフ会も、 イベントがあるたびに出てはきたが、 やはり7の時期でサイトを異常更新していた影響で、 ただのファンとしてはやりすぎている と思われはじめ、嫉妬や妬みを買うようになる、 そして少し他のファン仲間との ずれがおき始めた。いや、妬みかうほど、 自分はハッピーではない。 そう思いながらも仕事と趣味を行き来する時代であった。 まあそれでも、 平松さんが8年ぶりに オリジナルアルバムを出した年でもあった ので、それなりに趣味は満喫していたかもしれない

9、外国語部(2013~2015)

YOUTUBEが一般的になっている現在は フィールドは常に世界規模である。 今は世界に垣根はない。それに気づかされたことがある。 私は平松愛理ファンになる前は洋楽を聴いていた。 PHIL COLLINSさんのファンである。 80年代、90年代よく聴いていた。 外国語学部にはいったのも、 彼の音楽の影響によるものが大きい。 当然、YOUTUBEでもPHIL COLLINSを検索することも多い。 1つ気づく。2013年。彼は2000年代 ディズニー・ターザンなどの主題歌を 歌っているが、当然英語だ。 英語のはずだったのが、その主題歌を本人が 別の言語でライブで歌っている動画をみたとき、 衝撃が走った。 他の言語でもやるんか。 歌うんか。 そしたら、平松の曲を英語で歌わしてみようか。 自分が英歌詞にして、 英語ボカロで歌わす。2013年は英歌詞にしてみて、 2014年、2015年はボカロ化した。 本人もびっくりしたであろう。 だが、実は大変なことに気づく。 私が英歌詞した時点で、 もうそれは全くの別物になる。 平松が英歌詞したならまだわかるが。 ちょっと度を越えたようだ。 まあ、英歌詞21曲、英語ボカロ12曲。 このくらいでちょうどいいかもしれない。 まあ、そこから発展して、 自分の曲を 英語ボカロしたんですけどね、2016.10に。

10.第二次成熟期(2016-2017)

平松ボカロは提供曲をコンプリートし、 今度はファンの9割はしらない、 実際は 自分も知らなかった曲をやるようになる。 平松の会をやるうち、 アマチュアの時代の曲をシェアしていただいたり、 サイトユーザーから、 シェア していただいたりしたものを、 MIDI化ボカロ化している。 平松ボカロは216曲 平松MIDIは207曲になった。 一方、脚本は21本になった。 そろそろやることは なくなるかなと思ってた矢先、8月にもうフラッシュ 使えなくなるよのフラッシュ事件が起こった。 フラッシュプレーヤで音楽を作っていた私は 平松サイト、岡村サイトをはじめ、すべてのグループ サイトで音楽の記述を変える大工事をやった。 60時間を超える大工事の末、2017年秋になるころには すべてのサイトで実装し、 対応した。 また、すべてのサイト、15サイトに関して、レスポンシブデザイン を適応した。 簡単に言えば、スマホで表示しやすいサイトに 対応したのだ。これが年末にはすべて対応した。 しかし、対応しきっていたと思われた2017年終わりにあることを 気付くのである。

11、トータルメンテナンス期(2018~夏)

もう急いで対応することはないと思いきやあることに気づくのである。 それが下記である。

A期(2018/1~2018/3)

1、非FLASH化、非JAVA APPLET化

ホームページも時代が変わるにつれ変化していかねばならない。 10の時期で、音楽プレーヤーを非FLASH化したが、かつて ホームページのTOPを飾った 、FLASHをどうにかしないといけない。 とはいえ、13年前に作ったFLASHは形式が古く、 変換がきかない。 だから、スマホでビデオにして撮って、平松動画化した。 JAVA APPLETはもっと困難を極める。最新のJAVAとセキュリティ 設定を下げても、 警告で機械に怒られる形でやっと表示されるので ほどんどのユーザーは見れていないはずで、 これもなんとか自分の ブラウザで表示させ平松動画化した。 またゲームも1つJAVA使用のものがあり 、これも代わりのゲームにした。

2、東日本大震災支援

平松さんは、東日本大震災後、宮城県山元町で花サカスプロジェクトを 立ち上げ復興支援している。もう7年目になる。 平松さんが継続して活動している姿を見て、 これは一度、山元町にいっとかな あかんな。と思うようになり、山元町へ単身赴きまして、 感じたままを レポートしました。と同時に、夢ファーム応援動画を支援する立場となった。

B期(2018/4~7)

デザイン

BON CRESCENTは決定的な弱点があった。それはデザイン。コンテンツ重視でやって いたのと 、それからデザインが元々強くなかったこともあり、ずっと無視し続けて いた。 しかしながら、今回デザインを見直す機会が来た。 検索の順位が下がってしまったので、 ちょっとSEOの会社に相談してみた。 その時に言われたのが、デザインがまるでダメですね。 とのこと。 なので、デザインよくすれば人は集まると言われ、ではデザインやろうかというところ。 とはいえ、htmlだけでも1000ファイルはあるこの化け物サイトをどう、 デザイン変更 しようか、頭を抱えることになる。結果、1つのデザインを共通して、 コンテンツファイル 形式にしてしまおうということで、 コンテンツファイルはほぼ1つのデザインで決めた。 コンテンツをその中にはめ込んでいく作業。 しかしながらそれでも1000ファイルはあるhtmlコンテンツ。それなりの時間を要した。 4月の半ばから計画し完成まで約3か月。7月の半ばまで約300時間かけて大工事を行った。 さすがにやりきった感はある。18周年の8月3日までに間に合ってよかったと思う。 まあ、順位はアドレスを変えたことでさらに落ちてしまったが、 平松愛理 ファン、平松愛理 BONでなんとか出てくるので、そこで辿っていただこうか と思っている。

12、イラスト動画脚本&統一期(2018/8~2022/10)

<脚本イラスト動画制作>

昔から夢があった。それは、2010年からはじめていた、平松脚本を動画化すること。 最初は無我夢中に脚本を書いていた。しかしながら今は動画の時代。やはり動画コンテンツ でないと世界は広がらないなと思っていた。幸運なことに、少し予算ができたので、 自分の書いた台詞をどう表現してくれるか気になりまして、募って、台詞を読んでくれる 人を募集した。そして、その納品物を聞くやいなや興奮状態に。いや、これは動画化するべき でしょうと思い、 しかしながら、アニメは莫大なお金がかかる。 だから90分ものの動画は90枚、60分ものは80枚、 30分ものは40枚、5分ものは10枚 で回すことに決めた。最初は訳もわからず、編集もド素人状態からはじまった。 勿論ソフトも何を使ったらいいかもわからないので、1万ぐらいであるソフトを買ったが ソフトが長編動画に耐えられず、 結局、アドビプレミアを追加で買うことになって対応。2020年からは動画編集も外注にした。4年間の活動で 動画は26本作成した。またラジオ制作もメンバーと協力して32本制作した。

<統一期>

11の期間で、平松サイトと岡村サイトは、リニューアルデザイン をしていたが、 他のグループサイトは以前のままだったので、一気にここでグループ全体サイト 12サイトをすべて、統一したデザインにしようということで、一気にリニューアルをした。 また、平松系サイトでは、ファン初心者用に作った記事型サイト桜柚月をBON CRESCENTが吸収する 形で合体した。桜柚月のコンテンツは個人的には気が進まないコンテンツだが、アクセスが多いので 残しておこうと決めた。 これが6月以降、グーグルの検索で桜柚月の10個の記事がグーグルの検索に 好まれ、 アクセスは3倍に伸びた。結果的に統一にしたことで、BON CRESCENTが生き返った。 それと11の期間でリニューアルを行った際に、 英語版サイトを閉鎖してしまって いた為、今一度、ここで、復活させた。 そしてグループサイトデザイン統一、 桜柚月と英語版をBON CRESCENTに統一、12の期間は私に大きな 変化をもたらした。

13.平松楽譜&コンテンツ拡充時代(2021/8~2022/2)

平松さんがコロナになったことで、復活祈願の為、コンテンツ拡充を開始。 乳がん休業時にはMIDI40曲を作って、YOU ARE MINEを作成して応援したが、MIDIは すでにたくさんある。そこで、いろいろコンテンツ拡充をしていくことに決めた。 平松DATAエリア、各エリアのコンテンツは10だったが20、平松分析は30に増やした。 また復活祈願イラストとかも外注した。そして、平松楽譜の大量作成に乗り出した。 ただ、2022年2月にはそのコンテンツも終わってしまうとのことでいろいろ考え始めた。 平松さんは復活してはきたものの、まだ本格復帰には時期尚早を知り14へと進む

14.WEBゲームコンテンツ制作期(2022/2/13~2023/11/30)

せっかく平松ミディがあるのだから、 平松ミディ音ゲー作りたいな。しかもサイト内のブラウザゲームとして。 でも難しいだろうなー。なんて思っていました。 で、時間に余裕あるときに、音ゲー関係の検索をしていたのですね。 で、最初、scratch 音ゲーでなんかひっかかりました。scratchって何?からはじまりました。 そしたら小学生からはじめるscratchプログラムみたいのが見つかって。 部品みたいな ものをパズル形式ではめ込んでいく新しいプログラム言語で、簡単に音ゲーが作れると。 で、これにしようかなと、最初思ったのですね。でも、問題がありました。 自分所有のサーバにあげないと著作権に引っかかる。 作っても消されちゃうなと思ったので、 他の方法ないかな?思ったんですね。 そしたらUnityという、ゲームプログラム開発なら、 可能なことがわかり、 そしてユーチューブにUnityの音ゲーのことを教えてくれる動画みつかり、 有料会員になってインストラクターとzoom会談し、平松音ゲー制作がはじまりました。 まあホームページ歴も長いこともあって言語とかは嫌悪感は なかったので3週間でサンプルプログラムは完成しました で、4月に量産、110曲分作成してこれはどう?という形で 親友や業界人にお聞きしたところ、一言、スマホゲームじゃないの?と言われ撃沈。 急いでネットでブラウザスマホゲームを検索しました。そしたらそれ用のゲーム開発をしている方に 出会いzoom会談。サンプルプログラムを考えてくれることになりました 。そして、スマホ版部屋Y音ゲーが仕上がったのが2022年5月。今一度、聞いたら、 面白いという評価だったので量産。今度は211曲になった。 7月末でほとんど更新ネタが 尽きてきて沈黙状態になったが、8月下旬に平松ゲームの 種類を増やそうと奮起し、検索してたらUDEMYという、ビデオ教科書サイトにたどり ついた。平松ゲームにできそうな、ブラウザスマホゲームがそこそこ種類あったので 早速開始。2023年11月にはスマホゲーム32種類、PCゲーム26種類になった。 もうこれ以上は必要不可欠なコンテンツではないが、ゲーム作りはほかと比べて 制作費が安い。日本はゲーム大国であるから、シンプルなゲームであれば4桁の 金額でたくさん制作できる。一応、とんでもない数のコンテンツになった為、 一旦こちらはクローズする

15.分析記事企画(2022.12-2024.01)

動画制作時代に音楽担当であったmitsueさんに平松楽曲分析してもらっていましたが mitsueさんが動画チーム解散時にこの企画を辞退したため、改めてこの分野の方 を募集し、今後の活動にすることにした。ゲーム制作先生、じょに先生も加わり 結果、じょに先生8作。ミスチルンさん8作。C-cianさん3作。 mitsueさんあわせて22作に達した。唯一、BONが作っていない平松コンテンツがここになる。 ただ、BONも少し書きたかったので2つ書いて24コンテンツとした

16.保守期(2024.2~)

実はBON自体もこのサイトはTOO MUCHなサイトだと思っている。 やれることはやりつくしたのではないだろうか。 今後は趣味としてのBONではなく、仕事としてのBONを 新たにやっていこうと想っている。

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