平松愛理の知恵袋

感想

平松愛理

平松愛理の簡単なプロフィール

平松愛理

1964年3月8日生まれ。神戸市須磨区出身。

1992年に「部屋とYシャツと私」でミリオンセラー 1993年にアルバム「Single is Best」でミリオンセラー 1994年編曲家の清水信之氏と結婚するが2005年離婚 1996年に娘を出産、2001年に乳がん発覚。治療に専念し、 2004年復帰。2019/8/28 部屋とYシャツと私~あれから(続編)リリース 2021年8月にコロナに感染。回復したものの、たくさんの期間後遺症に悩んだ 2023年3月8日に自身のYOUTUBEチャンネルでコロナを振り返る動画を投稿し新しいスタート切った 2024年はデビューから35周年となりますます活動中! 平松OFFICAL YOUTUBE
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平松愛理の知恵袋

平松愛理

YAHOOの平松さん関連の質問をBONがs勝手に答える

皆さん、知恵袋をご存じですか?平松愛理、知恵袋で検索すると、 過去いろんな質問がなされ、解答されていますが、BONが新たに勝手に 新たに答えていくコーナー



Q7.平松愛理さんの「戻れない道」が、あるウエディングソング特集に入っていました。 ウエディングで歌うなんてとんでもないと思うので驚いた。皆さんのご意見はどうですか?

平松愛理

お答えします

1.そもそも90年代の平松愛理さんの歌詞は過去の恋愛をしつこく語る。
2.たまたま「都合のいい女」のドラマの主題歌タイアップ。
3.確かに「清水信之」氏との結婚が重なった曲。そしてこの曲の編曲は清水氏。

はい。確かに平松愛理の2番目の結婚ソングとして有名です。ウエディングソング特集 にもされる。ただし、この曲は世間的にはウエディング曲だが、本来は平松愛理の恋愛世界観 が詰まっている。その世界観は過去の恋人をずっと思いながら、今を思う、比べる。上塗りする。 そういう世界観が強いです。当時はまった方、アルバムを2枚以上もっていた方はご存じなのですが 2番目のヒット曲単体でよく聴くと、え?これって?となる方が多いのでは。でも平松愛理は そもそもこういう詞を書いていた人です。私も作詞をするのでわかるのですが、平松さんはかつて コーヒー飲みながら、大学ノートでフレーズを書きなぐっていたそうです。時間は夜中。 何もないところから妄想してでてくるのは、確かに過去のこと、それも悲しい出来事を思い出して しまいがちです。私がそうでした。平松さんもそうだったようです。そもそもこの曲はシングルとして 出すものではなかった。もともとは「都合のいい女」のタイアップ曲の候補は「ごきげんよう」だった。 しかし本人ではない力ある方が「これは戻れない道でしょう」ということになり、この曲が全面に立った。 この曲6分超えるんですよ。90年代中期は3分代シングルが王道な時代にこのながさ。シングルに するつもりのなかった曲といえよう。 平松愛理は一時期この曲を歌うのをやめていた。離婚ふっきれたといった2017年、この曲を歌い始めた ここは想像の域に入るが、戻れない道と清水信之は密接な関係があるんじゃないかとふんでいる。 まとめます。「戻れない道」はある意味「私曲」であり、彼女なりのウエディングソングである。 ウエディング特集は周りが決めたんでしょ?が回答です。

Q6.平松愛理さんは永遠に働く女性の味方の曲を書き続けるのでしょうか

平松愛理

お答えします

売れていた頃の売り方イメージが「働く女性の味方」だったといえるでしょう。 シングルになったものだけ、ヒットしたものだけでみるとそういうイメージが ありますが、少なくとも現在の平松さんにそういう意図は見受けられず、 普段生活してて思うことを描いているものと思います。特にコロナ渦からは 働く女性限定ではなく、生き方バイブルソングを描いている感覚です。 ご本人もシングルマザーですので、生きていくために。働くには。という テーマは常にあったと思います。ただ、現在は働くよりも「生きる」をテーマ にしていると思います。これは2022年7月、ファンクラブ限定で歌われた新曲 にもそれは反映されています。



Q5.「部屋とYシャツと私」の以前と、以後では 音楽性などは変わりましたか?

平松愛理

お答えします

変わっていません。正確に申し上げれば、一時期売れる曲を書かされていたために 変化せざるを得ない状況であったということです。元々は、平松愛理はいろんな ジャンルの曲を描くことができます。サンバっぽいもの、メロディアスなもの ロック調なもの、パンクに近い音楽。そして平松愛理の好きな旋律はクリアなメロディ よりも明るい曲調にもマイナー音をまぜるような、光だけでない音楽性です。 ヒットする旋律と少しずれがあります。一般的に平松愛理としてヒットしていた 旋律はマイナー音の少ない楽曲でした。聞いてて心地よい音楽がヒットしていました。 しかしながら、平松愛理が表現したい音楽の指標として「白夜」のような旋律 (オフィシャルYOUTUBEチャンネルで聴けるので聴いてみてください) です。マイナー音が結構ちりばめられている音楽性が元々もっている味です。 ヒットしていた時期は主にマイナー音が少ない楽曲は多いです。なので、 平松愛理を90年代の一時期聴いていた方はこのイメージで聴いているので、 変化しているように感じるのです。逆に現在は変わりましたか?という質問ならば そうかもしれないとなります。なぜなら、作りたい楽曲のみを発表しているからです。 オーダーメイドのような「ありがとう」(2018年作)では覚えやすいメロディで 一切、マイナー音がありません。「仕事」としての平松愛理と「アーチスト」としての 平松愛理には差異があり、売り上げを気にすることなく、オーダーメイドでなければ アーチスト、平松愛理を表現している、という回答になります。



Q4.平松愛理は一発屋?

平松愛理

お答えします

ははは。これはアーチストが嫌う質問だと思いますね。売れたという指標が100万枚クラスなら。1発屋に なってしまうな。でもですね、アルバムもミリオン達成しているのですよ。だから1曲の1発屋とは違うかな。 あと1発というのがですね。例えば、90年代の30万枚クラスでもそこそこ大ヒットになるのでシングルは3発は いっていますね。あとアルバムはね。30万枚以上でいうと4枚なんですよ。ベスト盤1位・オリジナルアルバム1位 んー。そうですね。私が思うに世間でいう1発やって、例えば「香水」みたいなものをいうのじゃないのかな。 でも人は興味ないとチャート見たりとかしないので、確かに大ヒットというくくりでいうと1発屋なのかなあ。 でもAnswerにも2発ぐらいはとあるし。でもそうですね。1発屋は否定したいかな。まあ、ファンというひいき目で みても、アルバム4枚ヒットというところで否定したいです。はい。少なくても3年間は旬だったと思いますよ。 複数の曲で。まあ、一発屋表現は「ファン」的な言葉からしてもアーチスト軽視してる表現なのでこのぐらいにしときます



Q3.平松愛理をどう思いますか?

平松愛理

お答えします

現状に屈しない方だと想います。基本夢のために貪欲で、そう簡単には諦めない方です。 平松さんの想いの中に、子供が欲しいというのがありました。とはいえ、デビュー当初から 子宮内膜症に悩まされ出産は諦めてくださいと云われ続けていたが、その夢を諦めることなく 妊娠。しかも出産前には胎児が前置胎盤になってしまい、母子ともに生命の危険がありながらの出産でした メジャーデビューの時も夢に貪欲でした。力のある方に曲を聴いてもらいにレコード会社に通い続けた。 なかなか相手にされないと人は諦めてしまうものだが、執念の強さを感じる。これは2002年の乳がんのときも 同じ。まだ生きるんだ。歌うんだ。その執念が復帰に繋がっている。大きなバックアップがなくなっても コロナにかかったときもその精神は一貫している。質問者さんがこの質問されたのはちょうど平松さんが コロナにかかった頃。そしてその時期は2021年8月。世間的にはコロナが蔓延しているから観客つきでのライブ はいかがなものかとまだ騒がれていたとき。確かに、志村けんさんがお亡くなりになってから、世間のコロナに 対する緊迫感で高まり、ソーシャルディスタンスという言葉が生まれた。緊急事態宣言も発令され必要以上に 大人数の会合は控えるようにという空気感が存在した。しかしそれから時は流れて、緊急事態宣言下ではない 時期に移った頃。世間の考え方は割れる。もういいじゃん派といやいやソーシャルディスタンス保てと。 ミュージシャンにとっては死活問題でもある。長い間、活動できないと「廃業」になってしまう。 「廃業」になるのは嫌と現状に屈しない姿がありました。その中での感染。まだ、2021年8月頃は、ほら いわんこっちゃないいろいろ動いたから感染したんだろ?という空気感ありましたが、そこから年月が 経った今、世間の常識の空気感が一変している。「気をつけてもかかるときはかかる。かかったらかかっただと」 変化していく世間の空気感。でも平松は一貫しています。夢のために生きると。コロナ初期に出した曲「白夜」 でそれを表している。歌詞にこうある。「昨日の人を悪くいう。自分の不安まぎわらすため」このフレーズは 平松さんの意見と意思を感じます。とはいえ、平松さんはコロナにかかったあとは、特急列車の夢号にのることから どんこう列車の夢へ乗り継いだ。ゆっくり歩いていいじゃないと。それでも現状に屈しない生き方は健在です。 まとめになりますが、平松愛理をどう思いますか。相手に強要するのではなく自分はこう思う。こうしたいを貫く人。 という回答になります。



Q2.平松愛理好きな人って世代的に何歳代ですか?

平松愛理

お答えします

2022年現在のBONの解答です。基本、平均55歳あたりだと想っています。 ただ私は48歳なので、40代もいるという認識です。 部屋とYシャツと私がはやったのは1992年。当時私は18歳でした。 最も最新ヒットに興味ある世代って15歳から30歳ぐらいまでだと 想うので単純にリアルタイムから聞いていた世代は40代から60代ということ になります。ただ今はリアルタイムでなくても無料で音楽が聴ける時代、 または定額制の音楽サービスを使っていれば、若い方でも部屋Yを聴かれる 可能性はあります。だから平松愛理に関しては、コアファンは50代が中心。 軽いファンはどの世代でもということになります。2022年はカーペンターズ の特集ラジオをやっているので、60代、70代のファンも増えてきている印象です。 カーペンターズのリアルタイム世代が50年近く前なので。 アーチストとして悩ましいところは、ファンが軽いファンが多いこと。 無料のラジオなら聴くけど、足運んでもしくは有料配信まではいいかな?!というイメージ なので、あくまでコア層のファンは50代ということにしておきます。



Q1.平松愛理さんが「部屋とYシャツと私」の後に人気が長続きしなかったのは何故でしょうか?

平松愛理

お答えします

①「部屋Y」「戻れない道」「Single is Best?!」「マイセレナーデ」
「もう笑うしかない」そこそこヒットしてる
②「女の命は短くて」「あなたのいない休日」も健闘した。
ただ、その前にヒットしていた「素敵なルネッサンス」含め8曲。
③人気が高い時期に「結婚」した
④もともとの音楽性はヒット曲とは違う。ある意味、ヒットは「作られて」いた。
⑤音楽路線が「7days Girl」までのヒットアルバムと96年の「Reborn」では違う。

①の解説から。平松愛理の売れ方は爆発ではなかった。じわじわ浸透していった形なので、大きな固定ファンを獲得していた 訳ではない。93年に出たベスト盤がほぼピークに達していた。①のヒット曲は長い間、ライブで歌ってきた。ある意味 ヒット曲と自身が納得する曲でマッチしていた証拠である。しかし、②は違う。同時期に大ヒットした、アーチストと比較 させていただくが、ZARDね。「負けないで」からしばらくビックヒットを連発した。これは同タイプの曲を書ける作曲家が いたことが大きい。ZARDはこういう曲を出す。安定感から多くのファンを獲得した。ヒット曲を安定して生産できていた。 もう1つ90年代を語るのに必要なグループ。WANDS。WANDSはこういう曲を出す。だから安定して売れていた。しかし、 ボーカルの上杉さんは納得いかなかった。いきなり曲調も歌い方も違う「SAME SIDE」を出した。これは違う。セールスも 影響した。やりたくない曲やるくらいならと脱退。一番わかりやすい例である。音楽性の違い。さて、話しを平松に戻します。 ②は平松はほとんどライブで聞いたことがない。つまりヒット曲にもかかわらず、それほど愛着はないものと考えられる。 平松愛理は自然と「ヒットする音楽」を作っていたわけではない。1曲ならまだしも、5曲ヒット曲だして、「平松愛理」 は本来、作りたい曲ではなく「ヒット」する為の音楽を作っていた可能性がある。レコード会社からの「売れ続ける」という オーダー。商売は時折残酷だ。自分の作りたい曲がすべてヒットしていたらこれほど幸せなものはないが。実際は作りあげた 「平松愛理」像をくずさないようにしていた時期があったのではないかと想う。売れ続けているイコール、幸せとは限らない。 ③ファンというものは自分勝手なもの。仮の恋人にしている妄想ファンも多い。だからこそ、結婚適齢期だった平松がすんなり 結婚してしまったことにより固定ファンはそぎ落とされる。④は先ほど云ったとおりで、アマチュアの曲を聴いている限り 「もう笑うしかない」のような一切マイナー音のない、アップテンポな曲はあまりない。「月のランプ」で敢えて「マイナー」音 を出したエピソードは有名で、90年代のヒット曲は少なくとも、求められたヒット曲イメージはある。4拍子で短い歌で、 クリアサウンド。⑤はあくまで「平松愛理」の本来の姿を現したということだろう。売れる音楽ではなく、表現したい音楽。 本来はこれがアーチストである。ただ、商売というものでいくと売り上げは伸びない。 表題、平松愛理さんが「部屋とYシャツと私」の後に人気が長続きしなかったのは何故でしょうか? それは元々、ヒットしつづける曲を自然に出せる状態ではなかったということだとBONはお答えします。



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